『消えたお妃候補たちはいま』から紐とく、天皇陛下の雅子さまへの想い―後編
天皇陛下と皇后雅子さまがご成婚に至るまでを“皇室の婚活”という視点で読む
しかし、一方がどんなに結婚したいと思っても、そもそも相手が結婚したいタイミングになければカップル成立とはならないのが婚活のツラいところである。
87年の4月や10月にも東宮御所で一対一に近い出会いを重ね、浩宮さまの想いが募っていったといわれているが、小和田雅子さんはまだ外務省に入省1年目。
本人いわく「好奇心から」招待に応じただけなのに、連日深夜まで働いて帰ると自宅はマスコミに包囲され、宮内庁からは何の助けもないことに小和田家全員が苦しんでいた。
一方の宮内庁は、お妃候補として小和田家と雅子さんの身辺調査を進めていたが「お妃の条件」に合わないとして一番問題視していたのが、雅子さんの祖父が水俣病を引き起こしたチッソの社長・会長を務めていることであった。
理想の女性との先行きが見えないなか、浩宮さまは1988(昭和63)年2月、28歳直前の記者会見に臨む。
「(理想の女性には)会ったかもしれませんし、会わなかったかもしれません」
「(お妃を富士山にたとえると今は何合目?と聞かれ)結婚は30歳までにと申しましたし、七合目から八合目……山頂は見えてもなかなか、そこには近づけないという感じでしょうか」
「いろんな方の助言ももちろんですが最終的な決定は自分の意志でしたい」
発言は雅子さんを意識したもので、障壁はあっても何とか決めたいという強い気持ちを滲ませていると同時に、宮内庁の姿勢に抵抗しているといえなくもない。
しかし、チッソ問題がクリアになることはなかった。浩宮さまは「どうしてもだめなのでしょうか」「難しいですか」と尋ねたが、強引に主張を貫くことはせず「それなら仕方ないですね」と引き下がったという。
88年7月、小和田雅子さんは外務省の研修で2年間の英国留学へと旅立つとともに、お妃候補の圏外へと去ってしまった。
KEYWORDS:
消えたお妃候補たちはいま ―「均等法」第一世代の女性たちは幸せになったのか
小田桐 誠
皇后雅子さまと他の候補者たちを分けたもの
それぞれを待っていた未来は
令和時代が幕を開け、皇后となった雅子さまに大きな注目が集まっている。現在の皇室も結婚問題に揺れているが、天皇陛下が雅子さまを射止めるまでの「お妃選び」も、初めてお相手候補の報道が出てから15年という長期にわたり世間の耳目を集めるものであった。
その間、リストアップされた有力候補者たちは本書に登場するだけでも70名。雅子さまとのご成婚に至るまでに、家柄も学歴も申し分ない候補者たちがなぜ、どのようにリストから消えていき雅子妃が誕生したのか。
外務省でのキャリアを捨てて皇室に入られた雅子さまと、消えたお妃候補者たちは同世代で、いずれも「男女雇用機会均等法」第一世代。四半世紀を経た今、果たしてそれぞれの幸せをつかんでいるのか――克明に追ったルポルタージュ。